2013(平成25)年度 第1回授業

「考える力ってなぁに?」

講師: 学長 養老(ようろう)孟司(たけし)先生 

鎌倉市在住 東京大学名誉教授(解剖学者)

 

 

5月18日(土)午前10:20~11:30

鎌倉生涯学習センターホールにて

 


[先生からのお話し]

わたしたちが日ごろなにげなく受け入れていること、であったことがらについて、一番かんたんにとれるたいどは「そういうものだと思うこと」であるが、それは“考えない”ことである。では考える力とはどのようなことなのか?

  自分とは

「自分」という一番わかっていると思っているモノについて、それがいかにあやふやなものかを、子ども達に考えさせるように、いくつかのかだいをあたえて問いかけて行かれた。さんぱつ後の切り放されたかみの毛、はかれたツバ、ぬけた歯は自分だろうか?人間は口からしりまで一本の消化管が通っているが、その中は自分の内なのか外なのか?体の中にはばいきんがたくさんいるが、それは自分の一部なのか?田んぼからお米がとれ人間はそれを食べて身体が作られるので田んぼは自分の一部なのか?生きてゆくためにこきゅうしているがハイの中の空気はどうなのか?これらは、当たり前と思っていることが“考える”ことで当り前でなくなることに気づかせてくれる課題である。

さらに「自分」を考える上で、自分をとりまいている空気や他人などの「環境」というものを考えること、自分の外の世界はそれを見ている一人ひとりで異なっていて、暮らしをともにしている親子でも同じでないことを意しきすることが重要であると話された。

そして自分と他人とのたがいの間のえいきょうについて、「金づちによる手の打ちつけ」問題を話された。何らかの理由で手を失ってしまった人がいて、その人の目の前の手ぶくろを金づちで打ちつけるといたいと感じるという。その場合、通じょうの人であれば自分の手に実さいのいたみがないことで、“手ぶくろのいたみ”を打ち消してくれるという。他人の行いやいたみをみて自分のことのように受け止めるという本しょうが私たちにはそなわっている。

最後に「考えること」とそれにもどづいて「行動すること」の大切さについてふれられた。

 

[子どもたちとの対話]

 会場の子どもたちからのしつ問を受けながら、養老先生が対話的に話しを進められた。

◆「先生にとって考えている時間は何の時間ですか?」

 “生きている”時間である。とけない問題を1週間考え続けるということも大切で、ただ単に教わったことはわすれても、自分で考えたことはわすれないものである。ねむりながら考えることができるかというと、ねてる間に新たな考えやアイデアがうかぶということもある。

 

◆「楽しい夢をみていて、起きたときもう少しみたかったと思うのですが・・」

夢についての統計では、8割が悪い夢という。夢は五臓六腑が疲れたときにみるという研究があるがそう考えると悪い夢が多くなるのであろう。自分で見た夢を起きたときすぐに書き留めておいてはどうか。

 

◆「ゆめを見るときと見ないときがあるのはどうしてですか?」

 ゆめはだれでも必ず見ているもの。すいみん中はレムすいみんとノンレムすいみんが交ごにくり返し行なわれているが、レムすいみんではゆめを見ている。ただその内容を起きたときにおぼえていないことが多いのである。いちらんせいの双子の人が同じ時に同じゆめをみるということもあるという。

 

◆「すいみんはなぜ必要なのですか?」

 起きている間にたまった無ちつじょをねている間にちつじょをもどすこと。分かりやすい説明として「図書館では、日中にたくさんの人によるたくさんの本の利用がなされるとき、書庫が整理されているのでそこから利用者の希望の本をかんたんに見つけ、利用してもらえる。利用後に返されたさまざまの本を、へい館後、よく日までに整理して書庫にもどすこと」になぞらえられた。

 

◆「先生のこれまでの75年間で一番考えこんだことはどんなことですか?」

 よくしつ問されること。いろんなことがあるが、子どものころ考えたことでよく覚えていることとして、ピタゴラスの定理(直角三角形における三平方の定理)についてしょう明を考えたこと、それから円周りつのπのアタイをどのようにしたら自分で求めることができるか、円の外せつと内せつの多角形の外周の長さにはさまれた円周長として考えたことをしょうかいされた。

 

◆「考えるときに何かすることがありますか?」

 「歩く」ということがある。鎌倉でも昔は考えながら歩いても安全だった。ギリシャには“逍遥学派(しょうようがくは)”という歩きながら考える集だんがいた。京都には「てつ学の小径(こみち)」とよばれる道がある。

 

◆「かたこりはなぜなるのですか?」

 わたしもよくかたこりになるが、よくは分かっていない。医学では“死”につながらないことはどうしてもあつかわれにくいけいこうにある。温めたり、手を挙げる運動がこう果があると思われる。

 

(文責・中村)