コロナ禍を体験する中で、「疫病蔓延への対応も含めて、鎌倉の地に幕府を開いた頼朝の英知」をあらためて簡潔に振り返ってみたい。
1180年、源頼朝は関東の勢力を集め、平家に対して決起した。壇ノ浦の戦いで平家は滅びた。征夷大将軍に任命された源頼朝は、京都に背を向け鎌倉を本拠地にした。
頼朝はなぜ、鎌倉を本拠地にしたのか?
鉄壁の防御、鎌倉
鎌倉は防御都市であった。背後の山々は一年中緑が濃く、森は侵入を阻んでいる。狭い切通しで外敵の進入を防げた。
前面の由比ヶ浜も鉄壁の防御浜だった。船は砂浜で座礁する。兵士が海に飛び込み陸へ向えば、弓矢で射られてしまう。上陸する前に全滅してしまう。
頼朝は防御都市・鎌倉に閉じこもった。頼朝は何に恐怖していたのだろうか?
湘南ボーイ、頼朝
1159年、平治の乱で頼朝の父、源義朝は平清盛に敗北した。長男の頼朝は伊豆半島の韮崎町に封じ込まれた。頼朝は14歳から34歳までの20年間、この伊豆半島で過ごした。伊豆の山々を越えれば、相模湾、東京湾が広がっていた。
頼朝は真っ黒に日焼けして、新鮮な海の幸を食し、三浦半島の三浦氏や房総半島の千葉氏と酒を飲み交わし、温泉に浸かり、初恋もした。
頼朝は典型的な湘南ボーイだった。
征夷大将軍に任命された頼朝は京都に背を向け鎌倉に閉じこもった。その理由は、湘南ボーイの頼朝は京都の不衛生に恐怖したのだ。
不潔な京と清潔な鎌倉
世界中の都には共通した現象がある。都に行けばどうにかなると人々が止めどもなく流れ込んでくる。
平安京の人口は膨れ上がり、京周辺の木々は伐採しつくされ、山々は荒れ放題となっていた。京はスラム化し、疫病が毎年のように蔓延した。京は死臭溢れる都市となった。頼朝は京の二の舞を恐れた。流人によるスラム化を防ぐため鉄壁の鎌倉が必要であった。
鎌倉の地形は緩やかに浜に向かって傾斜している。人々の排泄物は自然に相模湾に流れ、その汚物は豊かなプランクトンを育み、プランクトンは小魚を呼び、小魚は大きな魚を呼んだ。浜は魚介類の宝庫となった。
鎌倉は人口膨張を許さない、閉ざされた清浄な都となった。
辺境の地理・鎌倉
鎌倉は不便な地理にある。図1は、東海道と横須賀線の図で、茶色は大動脈の東海道である。東京から横浜、大船そして静岡、名古屋、京都へと続いていく。
青色は横須賀線である。大船から三浦半島への行止りの線である。三浦半島は日本列島の盲腸のような地理にある。しかし、鎌倉は辺境ではなかった。鎌倉は、東日本が日本史の舞台に登場するための重要な地理にあった。
日本近代は三浦半島から
昔、関東平野は大湿地帯であった。図2を見てください。甲府盆地から相模川を下ると鎌倉を通り、三浦半島から船で房総半島に渡り東北へ向かった。箱根を越えて小田原から鎌倉を通り、房総半島に渡って東北へ向かった。
太平洋を航海してきた船は、三浦半島で停泊し房総半島へ渡った。どのルートも、鎌倉と三浦半島を通った。三浦半島全体が太平洋に張り出している大きな港の機能を持っていた。
江戸幕末、黒船が三浦半島の浦賀沖に来航し久里浜に上陸した。明治の西欧文明の窓口は三浦半島の根っこにある横浜となった。
日本の近代は三浦半島から開始された。
(2021年5月記)