<コロナ禍への講師陣メッセージ>

コロナ禍の今だから ― 過去の講師からのメッセージ ―

No.3 地形から学ぶ鎌倉の歴史

 なぜ、頼朝は鎌倉に幕府を開いたか?

 

竹村公太郎(日本水フォーラム代表理事)

 

担当授業:2016(平成28)年度 

第2回授業「歴史と地形―なぜ頼朝は鎌倉に―」

 

 コロナを体験する中で、「疫病えきびょう蔓延まんえんへの対応もふくめて、鎌倉の地に幕府ばくふを開いた頼朝よりともの英知」をあらためて簡潔かんけつり返ってみたい。

 

1180年、源頼朝は関東の勢力を集め、平家に対して決起した。(だん)()(うら)の戦いで平家は(ほろ)びた。征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)に任命された源頼朝は、京都に()を向け鎌倉を本拠地(ほんきょち)にした。

頼朝はなぜ、鎌倉を本拠地にしたのか?

 

鉄壁(てっぺき)防御(ぼうぎょ)、鎌倉

鎌倉は防御都市であった。背後(はいご)の山々は一年中緑が()く、森は侵入(しんにゅう)(はば)んでいる。(せま)い切通しで外敵(がいてき)の進入を防げた。

前面の由比ヶ浜も鉄壁の防御浜だった。船は砂浜(すなはま)座礁(ざしょう)する。兵士が海に飛び()み陸へ向えば、弓矢で()られてしまう。上陸する前に全滅(ぜんめつ)してしまう。

頼朝は防御都市・鎌倉に()じこもった。頼朝は何に恐怖(きょうふ)していたのだろうか?

 

(しょう)(なん)ボーイ、頼朝

1159年、平治の(らん)で頼朝の父、源義朝は平清盛(きよもり)に敗北した。長男の頼朝は伊豆半島の韮崎(にらさき)町に(ふう)じ込まれた。頼朝は14歳から34歳までの20年間、この伊豆(いず)半島で過ごした。伊豆の山々を()えれば、相模(さがみ)(わん)、東京湾が広がっていた。

頼朝は真っ黒に日焼けして、新鮮(しんせん)な海の幸を食し、三浦半島の三浦氏や房総(ぼうそう)半島の千葉氏と酒を飲み交わし、温泉(おんせん)()かり、初恋(はつこい)もした。

 頼朝は典型的な湘南ボーイだった。

征夷大将軍に任命された頼朝は京都に背を向け鎌倉に閉じこもった。その理由は、湘南ボーイの頼朝は京都の不衛生に恐怖(きょうふ)したのだ。

 

不潔な京と清潔な鎌倉

 世界中の都には共通した現象がある。都に行けばどうにかなると人々が止めどもなく流れ込んでくる。

 平安京の人口は(ふく)れ上がり、京周辺の木々は伐採(ばっさい)しつくされ、山々は()れ放題となっていた。京はスラム化し、疫病が毎年のように蔓延した。京は死臭(ししゅう)(あふ)れる都市となった。頼朝は京の二の(まい)を恐れた。流人によるスラム化を防ぐため鉄壁の鎌倉が必要であった。

 鎌倉の地形は(ゆる)やかに浜に向かって傾斜(けいしゃ)している。人々の排泄(はいせつ)(ぶつ)は自然に相模湾に流れ、その汚物(おぶつ)は豊かなプランクトンを育み、プランクトンは小魚を()び、小魚は大きな魚を呼んだ。浜は魚介類の宝庫となった。

鎌倉は人口膨張(ぼうちょう)を許さない、()ざされた清浄(せいじょう)な都となった。

 

 

図1 鎌倉は辺境の地か
図1 鎌倉は辺境の地か

 

辺境の地理・鎌倉

鎌倉は不便な地理にある。図1は、東海道と横須賀線の図で、茶色は大動脈の東海道である。東京から横浜、大船そして静岡、名古屋、京都へと続いていく。

 

青色は横須賀線である。大船から三浦半島への行止りの線である。三浦半島は日本列島の盲腸(もうちょう)のような地理にある。しかし、鎌倉は辺境ではなかった。鎌倉は、東日本が日本史の舞台(ぶたい)に登場するための重要な地理にあった。

図2 日本近代は三浦半島から
図2 日本近代は三浦半島から

日本近代は三浦半島から

昔、関東平野は大湿地(しっち)(たい)であった。図2を見てください。甲府盆地(ぼんち)から相模川を下ると鎌倉を通り、三浦半島から船で房総半島に(わた)り東北へ向かった。箱根を()えて小田原から鎌倉を通り、房総半島に渡って東北へ向かった。

 太平洋を航海してきた船は、三浦半島で停泊(ていはく)し房総半島へ渡った。どのルートも、鎌倉と三浦半島を通った。三浦半島全体が太平洋に張り出している大きな港の機能を持っていた。

 江戸幕末(ばくまつ)、黒船が三浦半島の浦賀沖に来航し久里浜に上陸した。明治の西欧(せいおう)文明の窓口(まどぐち)は三浦半島の根っこにある横浜となった。

 

日本の近代は三浦半島から開始された。

 

20215月記)