2014(平成26)年度 第3回授業

 

「東日本大震災の地で考えたこと」

講師 山形孝夫先生 宮城学院女子大学名誉教授

 

9月20日(土)14時~16時 

円覚寺信徒会館

 

 



震災が起きた時

 東日本大震災が起こった2011年3月11日午後2時46分、私は仙台(せんだい)のホテルで、東京の雑誌(ざっし)編集者(へんしゅうしゃ)と打ち合わせをしていました。そのとき、とつ然グラグラっと揺れ(ゆれ)出しました。はじめは「たいしたことはない」と思っていたのですが、だんだんはげしくなり、シャンデリアンが大きく揺れ、電気も消えました。ホテルの人が「3階が火事です」と言うので、みんなホテルの出口にさっとうしました。「火事はおさまりました」と言うので、少し安心したら、こんどは「津波(つなみ)が来ます」。私は津波の経験(けいけん)がなかったので、ピンときませんでした。その津波で仙台の海岸で200人が亡(な)くなったとラジオで聞きました。

地震(じしん)がおさまって、雪の降(ふ)る道を家に帰ると、本だながたおれていて、本が散らばっていました。電気、水道、ガスもダメ。自衛隊(じえいたい)の給水を受け、プールの水をトイレの水洗(すいせん)に使いました。お風呂(ふろ)には1ヵ月も入れませんでした。

4月になって海岸に行って見ると、道路はがれきでいっぱい、家はみんな津波に流されており、松林も根っこからたおれていました。小学校は建物だけ残っていました。

 

海がだめになる国の復興計画

国の復興(ふっこう)計画で、高さ10mの防潮堤(ぼうちょうてい)をつくる案が出されました。しかし、目の前に高い壁(かべ)が出来るので「海が見えなくなる」と地元の人は反対しました。また、海岸をうめ立てるので、海藻(かいそう)やプランクトンが死に、魚も貝も育たなくなり、「海がダメになる」と反対運動が起きています。国は予算を組んだ以上、計画を変こうする気はなく、いまだに工事は進んでいません。

(南三陸町が津波にのみこまれる様子のビデオを上映(じょうえい)。「死者549人、行方不明437人」とのデータ)

 

津波にあった友人たち

 私の友人は家族と共に家ごと津波に流され、太平洋に2日間ういていました。自衛隊のヘリコプターが来て、「すぐに救助に来る」と言いましたが、来たのは5時間もたってからで、その間イライラするほど長く感じられたと語っていました。

 死んだ友人もいます。お年寄(よ)りのデイケアをしている人でした。お年寄りを自たくに送り届(とど)けて、常磐線(じょうばんせん)の電車で帰ると中、地震にあいました。友人は「わすれ物をした」と、おくさんがとめるのも聞かずに事業所に取って返したまま、もどって来ませんでした。あとで身元不明の遺体(いたい)置き場で、ポケットに実印を持っていた人を夫と確認(かくにん)したそうです。

 

大川小学校の悲劇

 宮城県(みやぎけん)石巻市(いしのまきし)の大川小学校では、児童108人のうち74人、先生11人のうち10人がなくなりました。ひ難(なん)するために校庭に集まっていたところへ津波が来たのです。親がむかえに来た子どもは自たくにもどって助かったのでした。

 全員助かった学校もあります。地震が起きた時、校長先生が児童50人を連れて校しゃの屋上にひ難しました。しかし、女の先生が「ここは危(あぶ)ない。津波で学校の周りが湖になる」と言い、近くの神社に全員にげて助かりました。大川小学校も第3のひ難場所を用意しておけばよかったと思います。防災(ぼうさい)教育は念を入れてする必要があります。


 

 

 

「死者の国」に行く

 私の母は、私が8才の時に亡くなりました。妹を産んでから、うつ病になり、自殺したのです。自殺する前、母は私に「死にたい」ともらしていました。なぜか私は泣くにも泣けませんでした。そして、死ぬということはどういうことなのか、死んだらどうなるのか、死んだらどこへ行くのかを考えるようになりました。それがきっかけで宗教(しゅうきょう)学に取り組むようになりました。母の死が私の人生の出発点になったのです。

 死んだ人が行く「死者の国」がエジプトの砂ばくの中にあると聞き、35才の時、そこへ行きました。

(「都市と沙漠(さばく)と死者たちの国」というスライドを上映)。ナイル川の西側のさばくの中に修道院(しゅうどういん)があります。そこをたずねました。(修道院の中をしょうかいするスライドを上映)。その礼拝堂(れいはいどう)が、そこでなくなった死者をまつるお墓(はか)になっています。「死者の国」です。

 

 死んだ母の声を沙漠で聞く

私はある日、さばくを歩いて見ようと修道院を出ました。出るとき、修道そうから「修道院のとうが見えるはん囲にしなさい。風がふくと砂(すな)が足あとを消してしまうので、気を付けなさい」と注意されました。しばらく歩くと、風がふいてきました。風の音が聞こえます。だれかが自分を呼(よ)んでいるような音です。よく聞くと、死んだ母親の声でした。忘れていた母のことが、次々に思い出されてきました。母の死という悲しい出来事が私の記おくに残っていたのです。

私は母の死という悲しい体験が、今日の仕事につながっています。だれでも子どもの時の体験が記おくに残っていて、あることをきっかけに、すっと出てくるものです。みなさんも大人になったら、子どもの時の体験が、仕事をしていく上で、きっと役立つはずです。いまの経験(けいけん)を大事にしてください。

                                 (文責・矢倉)

 

 


 

 











【 参考 】

山形先生は著書(ちょしょ)『黒い海の記憶(おく)』(岩波書店刊)で、次のように書いておられます。

「死者を記憶するとは、死者との絆(きずな)を、時を超(こ)えて保持(ほじ)し、語り続けることであると言い換(か)えることができるように思います。死者との絆をつなぎとめるには、さしあたり二つの方法しかないように思われます。一つは死者を思って、ひたすら哭く(なく)こと。(中略・・ちゅうりゃく)二つ目は死者の無念と悲しみと悔いを、死者自身の<語り>を通して聞くこと。そのことを通して死者の悔(く)いを知り、悲しみを知る。知ることを通して死者に許しを乞(こ)い、死者と和解(わかい)し、未来に向かって共に歩いていく者となる。そのための死者との絆を、時を超えてしっかり記憶につなぎとめる」

「人は死者を記憶することを通して死者と向き合い、死者の悲しみと向き合い、時には死者とともに闘(たたか)う者となり、人生の究極の知である優(やさ)しさの未来の創造(そうぞう)に向かって近づいていくのです」

(横川)