2012年度 第3回授業

子ども大学かまくら 第3回授業(2013年2月2日)

 「鎌倉大仏のふしぎなヒミツ」

 講師 佐藤美智子先生(高徳院)

 

 

  私は、佐藤美智子と申します。このお寺の住しょくの母親です。住しょくは大学の仕事でどうしても手がはなせず、代わりに私がお話しすることになりました。私は結こんしてこのお寺に来て50数年たちますが、毎日毎日、朝から晩まで鎌倉の大仏さまをどうしてお守りしていこうか、境内(けいだい)で問題が起きないようにと一生懸命つくしてきました。

大仏さまはわからないことだらけです。みなさまに質問をしていただいてお話しするのが良いのですが、時間がないので、みなさんが質問したいことを45個、書きだしました。他に質問があったら聞いてください。

この順番でお話ししていきます。

 

●ナゾの多い鎌倉の大仏さま

 今日、お渡しした資料の一つに「鎌倉大仏関連(かんれん)年表」というのがあります。

これは、いまから10年前の2002年に、大仏さまが1252年に鋳造(じゅぞう)が始められてから750年目というので750年祭をしました。その時に、ナゾの多い大仏さまのことを少しでも分かるようにと、その5,6年前から研究会を開いて研究した成果を年表にしたものです。

鎌倉大仏さまの記録はないのですが、吾妻鏡(あずまかがみ)、太平記など鎌倉時代の文けんのなかに鎌倉大仏さまについて書いてある、それを全部ひろい出してつくったのがこの年表なのです。非常に貴重(きちょう)なものです。奈良の大仏さまは752年、宇治の平等院(びょうどういん)は952年につくられています。そのあと300年たって鎌倉の大仏さまはつくられました。奈良の大仏さまは500歳、年上になります。

奈良の大仏さまは高さ18メートル、鎌倉の大仏さまは13メートルですから、奈良の大仏さまは5メートルも高いことになります。今の奈良の大仏さまは江戸時代につくられたもので、奈良時代につくられたのはお膝(ひざ)のところだけで、あとは新しくつくられたものです。

 

●源頼朝の侍女と念仏上人が貢献

 なぜ鎌倉に大仏さまがつくられたのか。奈良の大仏さまは平清盛に焼打ちにあいました。その後、復興して法要したとき、源頼朝は数万騎(き)の兵隊と何百人ものおともを連れて奈良に出かけ、大仏殿の警護(けいご)を鎌倉の武士たちにさせました。大変な寄付もしています。そのため頼朝は鎌倉にも大仏さまをつくりたいと思わないわけはないだろうというのが学者の人たちの説です。

その時に源頼朝の侍女(じじょ)、今でいうお手伝いさんの稲田野局(いなだのつぼね)も一緒に奈良に行っいます。頼朝が亡くなり、彼女も歳をとって引退した後、頼朝の「大仏を建立(こんりゅう)したい」という意思を実現するため、ある時は狂女(きょうじょ)のようなふるまいをして、せんたくのためのノリを売って歩いたりして浄財(じょうざい)を集めていたようです。それを伝え聞いた淨光(じょうこう)という遠州(浜松地方)出身の念仏を唱えるお坊さんが全国を行脚(あんぎゃ)して一文銭を集めて回りました。

そのころ中国は宋(そう)の時代で、宋のお金が日本にありあまるほどあった。質が良くないお金を回しゅうする意味もあったのではないかと言われています。

そのころの河南(かなん)省の銅が使われている宋銭の成分と大仏さまの銅の成分が非常によく似ているので、かなりの宋銭が大仏さまの銅に使われたといわれています。

 

●大仏さまは木製と銅製の二つあった

 大仏さまは二つあったと言われています。吾妻鏡(あずまかがみ)によりますと1238年に最初にできたのは木造でしたが、10年後に台風か何かでこわれ、次につくられたのが今の1252年の銅像の大仏さまなんです。たぶん木製だとすぐこわれるので銅像にしょうということになったようです。

奈良の大仏さまは銅像なのに鎌倉ではなぜ木造で建てようとしたか、最初から銅像で良かったのではないか、しかしお金が集まらなかったため木造でしかできなかったとか、木造は銅像をつくるための原型ではないか、とかいろいろな説があります。

1243年には御堂(みどう)ができています。そして阿弥陀様を安置しています。その御像(ごぞう)が原型としてつくられたのなら、なぜ御堂が必要なのか。木造だから放って置いたら雨風に打たれてくさるので、仮の宿として御堂が建てられたのではないかという説もあります。

また、大風が吹いてこわれたため1252年に改めて今の銅像にしたのではないかとも言われています。とにかくナゾだらけの大仏さまです。

大仏さまをつくるのに何年くらいかかったのでしょうか。

これも、いろいろな説があります。たぶん、銅像は下から鋳込んでいきますから全体の形をつくるのには3年ぐらいかかっただろうとすい測されます。ただ、鋳込んでから77年もお金を集めています。つまり10何年たっても完成していない。そのため連弁(れんべん)や光背(こうはい)寺を完成させるためなのか、幕府にお願いしてお金を集めさせてもらっています。

吾妻鏡によりますと、鎌倉大仏さまについての記述は少なくて簡単です。

他のお寺のことはたくさん書いてあるのに最後に1行か2行しか書いてありません。なぜでしょうか。

これは私の考えですが、奈良の大仏さまのように国が最初から力を入れたのではなく、侍女と念仏上人が頼朝の願いを実現しようとして個人的に浄財を集めていた。それがやがて北条氏の耳にも入り、立派なものをつくろうとしていることが分かって、北条氏ら鎌倉幕府の協力体制が出来てきたのだろうと思われます。

 

●鎌倉の大仏さまは阿弥陀如来(あみだにょらい)

 吾妻鏡に大仏さまは釈迦如来(しゃかにょらい)と書いてあります。大仏さまをうたった歌人の与謝野晶子の有名な歌があります。

「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男(びなん)におわす夏木立かな」

大仏さまは阿弥陀如来(あみだにょらい)です。わかりやすく言うと、お釈迦さまはが実在した人物で、阿弥陀さまはお釈迦さまが説かれた道の神さまそのものです。阿弥陀さまの指はどこかで○をつくっています。

お釈迦さまの場合は小指は丸めていません。ですから鎌倉の大仏さまは阿弥陀さまで、お釈迦さまではありません。吾妻鏡の作者は間違えたのだろうと思われます。

与謝野晶子さんは勉強家だったので、吾妻鏡には鎌倉大仏は釈迦如来と書いてあるので、最初は、そう読んだのですが、間違いに気がつき、読み変えた歌も残っています。しかし間違ってはいますが、歌としてはいいのでしょう。

大仏さまの作者は全くわかりません。その頃は運慶(うんけい)とか快慶(かいけい)などの有名な仏像制作にたずさわる仏師はすでに亡くなっていますので、その流れをくんだ弟子たちがかかわっているのではないかといわれていますが、わかりません。

 

●前かがみは中国の宋の時代の特徴

 中国の宋(そう)の時代の仏さまの特ちょうを鎌倉大仏さまは持っています。宋の仏さまは少し前かがみが多く、鎌倉大仏さまも前かがみになっています。このため宋の様式と運慶(うんけい)、快慶(かいけい)の流れの両方がえいきょうし合ってつくられたのではないかと言われています。

大仏さまの銅を鋳(い)込んだ人は高知出身の鋳物師(いものし)、丹治久友(たんじひさとも)という人の名前だけがわかっています。何でわかっているかというと、川越でつくった鐘楼(しょうろう)の鐘には、鋳物師(いものし)丹治久友としか書いていない。ところが1252年に大仏さまが出来た後、東大寺真言院(しんごんいん)の鐘と吉野にあるお寺の鐘には「新大仏鋳物師丹治久友」と自分の名前の前に肩書を入れています。

このため丹治久友がかかわったと思われますが、この方一人では、出来ません。建長寺の鐘は、鋳物師、物部光司の作ですが、同じ時代だから一緒につくったのではないかと思われます。

 

●木枠を盛り土で固めて銅を流し込む

 どうやってつくったのか。資料の絵にあるように、下から順番に積み上げていたったんです。大仏さまには横に平行に筋が残っています。木わくの外と中側に土をもって、その木わくの内側の間にできたみぞに銅を流し込んでいく。ブロック、ブロックに分けて流し込んでつないでいく。一段目ができると、その上に土を盛って、二段目をつくっていく、肩まで八段、顔までいくと九段になります。上の銅と下の銅をどうやってつないだのでしょうか。次の段を作った時に、下の段に隙間(すきま)をつくっておく、それを鋳がらくりというんです。その方法が良く考えられていると外国人からも感心されています。

大仏さまが完成したときには大きな小山ができました。全部できたときに外側の土をそぎ落とし、内側の土を背中にある窓からかきだしたのです。2002年に初めて大仏さまの周辺を掘り起こしました。そしたら地面が大仏さまに向かって斜めになっている。土をかき出した跡が明確に残っていたんです。以前はどこかで造ったものを集めて組み立てたという説もありましたが、2002年の調査で、大仏さまは、ここで造られたことが証明されました。

大仏さまの地盤(じばん)はどうなっているのでしょうか。121トンもある重い大仏さまですから、何もしないと地盤が弱いため下に沈んでいってしまう。鎌倉は1、2メートルも掘(ほ)りますと、翌朝には掘った跡(あと)が水で埋(う)まるぐらいに水の多い土地です。しかも大仏さまの後ろは山です。その地盤が弱いところに、どうして大仏さまをつくったのか。

掘ってわかったことは大仏さまの周囲の地固めに大変な地固めをしています。昔あったとされる大仏殿の柱の礎石(そせき)が置かれたと思われる場所を掘ったところ、粘土(ねんど)と砂利(じゃり)とが1,5メートルぐらいの深さで地固めしてありました。それまでは大仏殿の大きさはわからなかったのですが、2002年の発掘で、現在の回廊(かいろう)よりも少し大きいことがわかりました。

御堂は横が45メートル。奥行きが42・5メートル。瓦葺(かわらぶき)の御堂ではないかと言われていましたが、瓦は一枚も出てきませんでした。瓦を使わない屋根だったことがわかりました。

 

●津波で流されてしまった御堂

 大仏さまは頭でっかちで、ネコ背だといわれています。確かに頭が大きくて、下の方が小さい。それは遠近法を生かしてつくられているからで、御賽銭箱(おさいせんばこ)のところから大仏さまを仰(あお)ぐと、皆様の目と仏さまの目がぴたり合うようになっています。

大仏さまは全身、金色の仏さまでした。1498年に大きな地震があって、津波が押し寄せ大仏さまの御堂は流され、それ以来、できていません。3・11の東北大震災の後、鎌倉大仏さまのところまで津波がきたのかどうかをはっきりさせるためボーリング調査を始めています。

大仏殿をなぜつくらないのという問いがあります。江戸時代に大仏殿をつくろうという話はありましたが、お金が集まらなかった。第一次大戦の後にも話がありましたが、文部省は「これまで700年以上もこの自然にさらされた状態でいたのに、大仏殿をつくって環境(かんきょう)が変わるといけないからこのままの状態にしておいてもらえないか」という見解でした。最近は、中国から汚染(おせん)された風がまい込んできて、一番いけないのが酸性雨です。酸性雨が銅を痛(いた)めます。明治時代の大仏さまの写真がいっぱいありますが、みな青銅のきれいな色をしています。今は酸性雨の影響(えいきょう)で、黒かったり、白かったりといろいろですが、汚くなっています。何とかしなければいけないということで長年、研究を続けてきましたが結ろんはでませんでした。

 

●江戸時代に荒廃状態から再興

 鎌倉には国宝が二つあります。円覚寺の舎利殿(しゃりでん)と大仏さまです。大仏さま明治時代に国宝になり、終戦直後の昭和30年に再び国宝にしていただきました。今の住しょくは何代目になるのでしょうか。

鎌倉時代を過ぎると、大仏さまをお守りするお坊さんもいなくなり、荒廃状態が続きます。だれからも省みられずに見捨てられた状態でした。田畑の中にぽつんと立っていたのを江戸時代に復興して、それから数えると今は15代目になります。

江戸時代に網戸(あみど)をつくったと思われます。扉(とびら)も後から作ったのではないかと思われます。後ろにぼつぼつボツとあるでしょ。それは光背(こうはい)をつけようとしたフックではないかと言われています。

仏さまは後ろに光背があり、ハスの上に座っていますが、この大仏さまには光背もハスの花もないのです。資金不足でつくれなかったのだと言われています。

後ろにあるのは連弁(れんべん)といってハスの花びらですが、江戸時代に復興した祐天がお金を集めて作ろうとしたが、資金不足で、これだけしかできなかった。仏さまの衣は通肩(つうけん)で、髪の毛は螺髪(らほつ)と言いますが、656個あります。何でこんなに丸まっているのという質問がありますが、お釈迦さまはインド生まれです。インド人はクルクル巻いている人が多いから、仏さまの象徴(しょうちょう)が螺髪でもあるんです。仏像初期のガンダーラの仏様など、髪がウェーブになっているのも多いのです。

 

●男でも女でもない仏さま

 仏さまの眉間(みけん)には白毫(びゃくごう)と呼ばれる白いまき毛がついています。これは世の中を照らしてくれるという意味があります。そのうえにあるのは肉けい珠(にくけいしゅ)と言って知恵の象徴です。

大仏さまにおひげがくちびるの上などについています。それでは大仏さまは男ですかと聞かれますが、仏さまには男も女もありません。性別はありません。長谷観音にもおひげはついています。

お耳が長いですね。なぜ長いのか。仏さまをつくるときは32相といって32の決まりがあるんです。そのうちの一つが耳が長い。なるべく大勢の人の悩み(なやみ)を聞いてあげようと大きい耳になったと言われています。また、お指の間に水かきがついています。これも1人でも多くの人々を救ってくださるためです。

しかも大仏さまの耳たぶにはあなが開いています。インド人は大きなイヤリングをつけたので、そのためにあながあいた人が多かったようでう。お衣は通肩(つうけん)といって、衣をかた方ではなく、全部の体をおおっています。

どうしてつくったかの資料は全くありませんので、体内に入ると、その作り方がわかります。

 

 

◇質問コーナー◇

 

Q 大仏さまの背中の窓は何ですか。

 

佐藤先生 あれは大仏さまをつくった時に、中にあった土や型を外に出すための取り出し口としてつくったようです。

 

Q 大仏さまのお腹はぽっちゃりしているのはどうしてですか。

 

佐藤先生 お釈迦様(おしゃかさま)は紀元前5世紀に生まれています。山梨には日本画家の平山郁夫さんの博物館があり、そこにはそれから5,600年たったころ、パキスタンの北部のガンダーラで、最初につくられた古い仏さまが置いてありますが、いずれもお腹がポチャッとしていま     す。私もなぜかなと思ったのですが、人間は豊かな人でないとほどこしはできない。ほどこしをする人はある程度のお金もあり、豊かでないとできません。だから体も太った形で造っているのが多いですね。

 

Q 二段目あたりに白いものがありますが、なんですか。

 

佐藤先生 壊れたりしたときに修繕した跡ですね。

 

Q 台座は鎌倉時代のものですか。

 

佐藤先生 昭和34,5年ころに昭和の大修理をしたのですが、その時に一段高くしました。

 

 

 

佐藤先生 螺髪は、お釈迦様はインド人だから、インドの人たちの髪型(かみがた)になっているのです。初期の紀元前1世紀ぐらいにできたガンダーラの仏さまはウェーブになっています。

 

Q 背中のフックはなんですか。

 

佐藤先生  光背をつけるためのものではないかと思われます。鎌倉の大仏さまには蓮弁(れんべん)もないし、光背(こうはい)もない。これもナゾの一つで、最初に計画していたけれど資金が集まらなくて、中止されたのではないかと思われます。